About LEVENT TORAN

アセナのレベントシェフてこんな人

はじめまして、私はオーナーシェフのトラン・レベントと申します。

日本語はペラペラですが、一応トルコ人。

いつも浦和駅周辺のイトーヨーカドーやパルコなどのご近所でうろうろしている外人…という事で妙に目立つため見かけた方もいらっしゃるかと思います💦

自分自身については、今まであまり人には話したことはありませんでしたが、せっかくアセナのホームページをご覧頂いたあなたとの縁を大事にしたいと思っていますので、お話ししたいと思います。

私トラン・レベントは、トルコ共和国のエーゲ海地方都市、デニズリという街の出身で、1964年8月8日に生まれました。

デニズリの近くには、「パムッカレ」という真っ白で美しい石灰棚があり、世界遺産としてとても有名です。

十代の頃のシェフです。
髪の毛フッサフサですね^^;

子どもの頃から祖父のレストランを手伝い始めたのが、料理の世界に入ったきっかけでした。学校の勉強は苦手だったけれど、料理を作ることとサッカーが大好きでした。

毎日サッカーボールを追いかける毎日で、地元の青年チームにも入り「将来はプロサッカー選手になる!」とまで思いましたが、母親にケガが怖いからと猛反対され、サッカーの道はあきらめる他ありませんでした。

レストランの手伝いはその後もずっと続いていて、周りの大人の仕事ぶりを見ていくうちにだんだんと料理の作り方を覚え、料理の面白さに熱中するようになりました。

トルコでは、20歳以上の男子に必ず徴兵制があるのですが、派遣された先でもトルコの軍隊の偉い人たちの料理を作っていたんですよ。

私は3人兄妹の長男として生まれ、下に妹が2人います。男一人ということで、とてもかわいがられ甘やかされて育ちました。

大人になって自分も店をやるようになりましたが、今思えば毎日がお気楽でとてもマジメに一生懸命仕事をしているとはいえませんでしたね。

でも、日本よりも時間がゆっくり流れるトルコでは、そんな生き方は特別ではなくごくごく普通のことだったのです。

1998年日本へ

私ののんびりとした日々に、突然転機が訪れました。それは1998年、私が33歳の時でした。

東京都内でトルコ料理レストランをオープンさせた同郷のトルコ人が、「シェフを探している」という話を聞き、日本に行ってみたいなぁと思ったのが、はじまりです。

当時のトルコ人にとって、「日本」はまさに未知の国。当然、家族は私の日本行きに大反対しました。

私自身も日本のことは全くといっていいほど知りませんでしたが、生来の好奇心が勝ったのか「とにかく行ってみる」と決めたのでした。

日本で私の新しい人生が開ける…と期待に胸を膨らませていたのです。

渋谷でまさかのホームレスに!

しかし・・・日本に来てからの生活は想像していたものと全く違いました。

雇われた先のトルコ人は大嘘つきで、昼も夜も一生懸命働いた私に何やかやと理由を付け、1円の給料も払いませんでした。

パスポートも取り上げられ、右も左もわからない私は、住む場所もなく、他に頼れる人もなく、仕方なく店で寝泊まりする日々。

しかし、何時までたっても変わらないトルコ人店主の態度に嫌気がさし、とうとう逃げ出すことに決めました。

行く当てのない私は、渋谷でホームレスとなり、路上生活をしていました。

早朝にパン屋さんから出る残飯のパンを漁って食べたり、段ボールで寒さをしのいだり…それはそれは悲惨極まりない生活でした。

この頃のことは今でもあまり思い出したくありません。

でも、その時はとにかく必死。トルコに帰りたくても、帰るお金もない。

しかし、はるばるトルコから日本まで来て、惨めなままで終わりたくない!そんな気持ちもありました。

生きていくため、あちこちを転々としてただひたすら必死に働きました。

とある和食店では、時給500円で皿洗いのアルバイトをしたこともありました。

アセナとの出会い

そんな時、知り合いの日本人にすすめられたのが、赤坂のトルコ料理レストラン「アセナ」でした。

当時のオーナーは、日本人男性とブラジル人女性のご夫婦。

トルコ人に騙されてすっかりトルコ人嫌いになってしまった当時の私は、初めはアセナで働くのは嫌でした。

30代後半頃のシェフです

でもトルコ人がオーナーじゃないこのお店なら大丈夫、と思い雇われシェフとして働くことになりました。

オーナーはとても厳しい人だったけれど、味についてはとにかく鍛えられて、私にとても勉強になりました。

今のアセナの味の基本はこのときに徹底的に叩き込まれたといってもいいかもしれませんね。

念願のアセナオーナーへ

当時のアセナには、私のほかにもたくさんのトルコ人シェフがやってきましたが、みんな途中でクビになり、ただ1人生き残ったのが私でした。

これまでの試練が私を強くしてくれたのでしょう。どんなに辛くても、自分には乗り越えられると信じて頑張ることが出来ました。

しかし、働き過ぎ、頑張り過ぎがたたって、腸の病気になり入院、手術を余儀なくされた時もありました。今も私のお腹には、その時の手術跡が生々しく残っています。

その後、オーナーに認められた私は、念願かなってアセナのオーナーになることができました。

コネも、お金も、何もなかった私が日本に来て4年目で、念願の自分のお店が持つことができました。

それは、たった一つの取り柄である料理の腕と周りの方のサポートのお陰だったと感謝しています。

現在、私が日本語がペラペラになったのは、いろいろな日本人と一緒に働き、友達もたくさんできたからでした。

もしトルコ人同士で固まって生活していたら、いつまでたっても日本語も話せず、日本の社会や日本人のことも理解出来ず、アセナのオーナーになることもきっと無理だったのではないかと思います。

あの時、私を騙したトルコ人を今でも許すことは出来ないけれど、別の意味ではよかったといえるのかもしれませんね。

本当に今だからいえることではありますが・・・。

やっぱり料理が好き

そんなこんなで、料理人としてひたすら走り続けて30年余り。

日本人の奥さんと出会って結婚し、娘も生まれました。赤坂のレストランの仕事は毎日朝早くから仕込みが始まり、営業時間は深夜近くまで及びます。

家族には苦労をかけてばかりで、週末しか家に帰れない毎日ですが、アセナを一人前の店にするまで頑張ると誓いました。

結婚はしたものの、結婚式も挙げておらず、特別なお祝いもせず…。日本に来てその時既に12年の年月が経ち、その間トルコに一度も里帰りすらしていませんでした。

トルコにいる私の年老いた両親が死ぬほど心配していることもわかっていました。

果たしてこのままでいいのだろうか・・・?と思いつつも、日々の仕事のことで頭がいっぱいの私は、そのことを省みる余裕が全くありませんでした。

2010年の1月末のことです。テレビの番組からの依頼で、「番組の中で結婚式をあげさせてくれませんか?」という電話がかかってきたのは…。

それまでもテレビや雑誌の取材は数多く受けていましたが、それは主にお店やトルコ料理のメニューの紹介でした。

テレビ局の人は、「訳あって結婚式を挙げていない国際結婚の夫婦」を探していたそうです。

自分のプライベートな結婚をいう一大事を、テレビで放送するというのは正直恥ずかしいという気持ちもあり、迷いもありました。

しかし、奥さんがトルコに行き、私の両親にも会ってもらうということだったので、よろこんで送り出すことにしました。

お店で結婚式を挙げました。パックンマックンと一緒に。

テレビ番組のおかげで、私達夫婦は自分の店で結婚式を挙げることが出来、私の母と妹も日本に来て、12年ぶりの再会を果たすことが出来ました。

本当に感謝の気持ちでいっぱいです。(その模様は、2010年4月13日にテレビ東京で放送されました)

またも大病で倒れる!

その後お店の経営は順調でしたが、長年の不摂生が祟り、ついに私はまたしても病に倒れてしまいました。

大動脈解離という心臓から出ている大動脈が裂けてしまうという恐ろしい病気でした。

(48時間以内に手術をしないとほぼ死に至るとされているそうです)

すぐに緊急手術が行われ、13時間もの手術時間を耐え抜きなんとか無事生還することができました。

回復してもまた早朝から深夜に及ぶ仕事の日々は数年続きました。

また倒れたらもう次はない…家族の心配もあり、東京での生活を続けていくことがだんだんと難しくなってきました。

そんな時、山と海に囲まれた自然豊かで比較的温暖な気候の南熱海の土地を見つけ、移住を決意したのです。

そこは、海に近く、私の生まれ育ったエーゲ海地方によく似ていたのです。

長年親しんだ赤坂を離れるのは本当に辛かったです。

熱海の自然の中で野菜を作りながら生活

熱海での生活は、畑づくりや薪割り、鶏の世話などをしながらお店を開き、だんだんと元気を取り戻すことができました。

奥さんの実家浦和で

熱海の自然のなかで暮らすうちに元気を取り戻した私は、又再びたくさんのお客様のために料理を作りたい!と思うようになりました。

奥さんの実家にあるさいたま市浦和で、お店の物件を探し始めました。

浦和はお店用の物件がなかなかなく、探すのがとても難しくて途中諦めかけましたが、たまたまネットで現在の場所を見つけ、浦和で「アセナ」を再出発することができました。

コロナで大打撃

しかし、世界的なコロナウィルスの影響や内装工事のトラブル多発でお店の開店準備が全く進まず、店舗の契約をしたものの売り上げが全くないのに家賃だけ払い続けること半年・・・・

所持していた車も売却、奥さんからも借金をし、お店の資金もいよいよ底を尽きかけるという危機を迎えていますが、なんとか歯を食いしばって頑張ってまいります。

今後も美味しいトルコ料理を作り続けます♪

浦和の皆さんにもぜひ美味しい本物のトルコ料理を食べていただきたいと願っております。

紆余曲折ありましたが、これからも何が起こるかわからない?私の人生は続きます。

私と日本を結んだ縁、これはきっと始めから定められていた運命だったのでしょう。

これからも、私はキッチンに立って料理を作り続けます。

ひと皿ひと皿に私の思いが詰まった料理をぜひみなさんに食べて欲しい。

そして、私を生んだトルコという国の素晴らしい食文化、世界の3大料理とまでいわれる料理の数々を楽しんで欲しいと心から願っています。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。